香山リカ 著
フロムはいったい「正しい愛」とはなんだ、と考えていのでしょう
では、フロムはいったい「正しい愛」とはなんだ、と考えていのでしょう。フロムの言葉を紹介しておきましょう。
「二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。
(中略)そうした経験に基づき愛は、たえまない挑戦である。
それは
安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。
調和であるのか対立であるのか、喜びがあるか悲しみがあるかなどといったことは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。
根本的な事実とはすなわち、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身から逃避するのではなく、自分自身と一体化することによって、相手と一体化することである」
私たちここまで、喜びや安らぎを得るための恋愛がうまくいかない時に訪れる不安や悲しみをどうすればいいのだろう、という問題を考え来たわけですが、フロムは、恋愛においては「喜びがあるか悲しみがあるかなどは取るに足らない」とまで言うのです。
確かに停滞(ていたい)ではなく、恋愛を自分の成長や活動のために使えるのは理想的ではありますが、私たちがまず気になるのはその恋愛がワクワク、ドキドキ、ウットリ、ホンワカなど、どれくらい自分を“快の気分”にさせてくれるか、と言うことではないでしょうか。
「この恋愛はとてもつらいものだけど、私はこれで自分の本質と向き合えているのだから有意義なのだ」と思いながら、愛の苦しさに耐えられる人が、今時どれほどいるのでしょう。
「愛は安らぎの場ではない」とまで言われると、
「愛とは結局、性欲の満足」というフロイト理論のほうがまだ説得力があるような気にさえなります。
こうやって見ていると、『愛するということ』は愛について真正面から考えられた心の専門家の名著ではありますが、そこで論じている愛は、今の私たちが考えるそれとは全く反対の性質を持っていることがわかります。
しかし、これはフロムがとりわけ向上心の強い人間だったからではありません。ほかの専門家たちもおおむね、愛を人間的な成長や向上と結び付けて定義しようとしています。
日米でロングセラーになっている臨床心理家スコット・ペックの『愛と心理療法』(創元社・1987)の中で、ペックは愛をこう定義します。
「愛とは、自分自身であるいは他者の精神的成長を培うために、自己を拡げようとする意志である」
ここでも『成長』という単語が出てきます。そしてペックはさらに、一時の情熱的な恋は愛ではなく、真実の愛には「愛の感情」すら伴わないのだ、と恋愛における努力や意志を伴わない感情を徹底的に否定しています。
「本当の愛は、愛の感情の欠けている状況で、つまり愛している感じがないにもかかわらず、愛を持って振る舞う時にしばしば生じるのである。
われわれの出発点である愛の定義を現実的に考えてみると、『恋に落ちる』体験が本当の愛でないことは(中略)明らかである」
ここから想像がつくように、ペックもフロム同様、ロマンティックな愛、依存的な愛、相手を甘やかす自己犠牲的な愛などは「本当の愛ではない」としています。
しかし、「愛とは成長のための意志や努力、感情に走った恋は愛ではない」などと言われると、私たちのほとんどは「私がハマっているのは愛じゃなかったんだ」と思わなければならなくなるはずです。
このように、精神科医や心理学者など心の専門家たちは、恋愛に非常に厳しい目でとらえ、そこから感情的な要素、ロマンティックな要素を極力、排除しようとしているようです。
森田正馬の「お茶漬け愛」
日本には、もっと極端な形で“ロマンティックな恋愛”を否定した専門家がいます。世界的に知られる神経症の精神療法「森田療法」を1920年代に確立した、精神科医の森田正馬(まさたけ)です。『恋愛の心理』(白揚社)という本の中で、森田は恋愛を次のように定義しています。
「恋愛とは、生殖衝動の発露として異性を求め、これを獲得、保有しようとする要求に伴う感情である」
恋愛は感情、とはっきり定義しているところはフロムやペックとは違いますし、生殖衝動つまり本能を重視する点はフロイトの定義に近いとも言えます。
「恋愛は感情である。したがって理知でもなければ、意志でもない」という考えは、むしろ現代の私たちの恋愛観にも通ずるものかもしれません。
しかし、その先が問題です。森田はそう定義された恋愛を、決して肯定してはしないのです。恋愛は感情であるがゆえに、「そのままに放任すれば、時を経るにしたがって自然に消失する。
これを行動に現わせば、速やかに消失し、もしくは変換する」とはっきりと愛の永続性を否定します。
そして、人生で大切なのは恋愛ではない感情、たとえば「平常は淡々として、別にこれがはっきりと恋愛の情とは自覚しないが、これが最も強い底力のある愛情」である夫婦の情愛のようなものだ、と言うのです。
こうなると、愛そのものの定義は違っていても、恋のような激しい感情からは程遠い「あるのかないのかも分らない愛」こそが愛の本質なのだ、という点では、森田も先に紹介したペックも同じょうな言おうとしていると考えられています。
ただ、これは個人的な印象なのですが、ペックの本はアメリカ的な実践主義やキリスト教的な禁欲主義の色が濃く感じられて、読んでいて息が詰まりそうなるのに対して、森田の『恋愛の心理』は食べ物のたとえが多く使われたり、そうは言いながらも自分は
「まことに多情であって、淫乱である」と惚(ほ)れやすい体質が披露されたりするなど、ユーモアのにおいが感じられます。
「ウナギの蒲焼や、ウニ、コノワタなどは、もとより美味は美味、珍味は珍味であるけれども、おそらく毎日これを食べ、一生の食用に共することはなかなか堪えがたいところである。
飯はわれわれの、もっとも飽きない、欠くことのできない嗜好品である。とくにふかし工合のよくできた飯は、うまいタクアンの茶漬で、この世で一番おいしいものではあるまいかと思われる。
恋は神聖なりとか、人生は恋愛なりかという輩(やから)の恋愛は、蒲焼の匂いにあこがれる一時的な性欲、もしくはいわゆる感覚的恋愛の激情であって、けっして持続的永久性のものでない」
恋に走るな、という話をするためにこれだけこれほど長く食べ物のエピソードを語らなくていいのではないか、とも思われるのですが、このような話は随所に引かれています。
ここで森田が言う
「覚性的(かくせいてき)恋愛」とは、顔を見た瞬間に突然、落ちる恋のことを指しています。
松田聖子さんが前夫との結婚を発表するときに、「(会った瞬間に)ビビビッときた」と言って話題になりましたが、まさにそれが覚性的恋愛だと思われます。
森田はこれを、外見だけに惹かれて始まる
「甚だ軽薄劣等な恋愛」だとして激しく否定しています。
しかし、覚性的恋愛にとらわれた人の多くは、「顔だけじゃなくて、彼の持っている何かに惹かれた」と主張するはずです。
「この人だ!」とまさに心が
“覚醒”して、そして恋に落ちるのです。そして、「私も松田聖子みたいにビビビッとくる恋愛がしたい」とこの覚性的恋愛にあこがれ人は非常に多いのではないでしょうか。
森田自身、覚性的恋愛の条件は顔だけでないことも十分、知っていたようで、『ロミオとジュリエット』の愛もこれに分類しているのです。それでも「これをただちに人生と思ってはいけない」と注意を促します。
森田はなぜ、そこまで「ビビビッとくる恋愛」を警戒し、そこに魅惑されないよう人を戒(いまし)めようとしたのでしょう。
あまりに否定されると、逆に「彼自身、運命的な恋愛に強い憧れを持っているいか」と思いたくもなりますが、ここではその問題にはこれ以上、立ち入らないようにしましょう。
では、森田は「淡々としたお茶漬けのような愛」に到達するにはどうしたらいい、と言っているのか。
これはまた実に簡単な話で、「見合いをして結婚せよ」と言うのです。
「親とか他人から選択されたものと結婚して、同棲の後、だんだんと生ずる恋愛の情」を森田は他動的恋愛と名付けているのですが、この恋愛の良さを森田は何度も強調します。
「他動的恋愛は、自発的恋愛とは反対に、年を経るにしたがい、接近、固着、同情などといういろいろな事情によって、はじめに思ったよりも深い愛が生じ、その人の多くの美点や長所を発見するようになるものである。
(中略)自発的なものは、冷めやすく、変わりやすく、逆に他動的なものは固着永久的なものとなることが多いのである。
たとえば私が仲人をした九組の夫婦のうち、相愛の一一組だけが離婚しただけで、他動的結婚をした方は、幸福な結婚に満足しているのである」
この頃でも森田は、「ウナギのようなうまいものでも、一週間も続けて食べればかえって、見るのも嫌になる」と美食のたとえをあげています。
食生活と恋愛を同じ次元で語ってよいものかどうかと疑問も感じますが、森田にとってはそれを同じ次元であえて語り、「永遠の純粋な愛」などといった幻想を打ち砕くことこそが、この本を執筆した目的があったのかもしれません。
そして、ペックやフロムは愛を通して人間は努力、向上、成長すべきと説きましたが、森田は恋愛はあっさりお茶漬け風にすませて、それまで生まれた時間やエネルギーを別のことに振り向けて努力せよ、と言います。
「願わくは世の青年男女よ、豪傑をまねて
溺酔乱行することなからんことを。また願わくば、似面非詩人の口車にのって、恋に溺れ、恋愛を骨董視して、その貴重な人生を犠牲に供することなからんことを。
努力せよ。人生の目的は努力であって、努力がすなわち幸福なのだ。そして人生の手段も努力であって、人生の実際もまた、この努力であるということを忘れてはならない」
ここまで恋愛不要論に徹するなら、あえてお見合い結婚などせずに一生、ひとりで努力したほうがいいりに、と言いたくなりますが、森田は結婚に関しては「人生の大礼であって、人生の幸福は夫婦和合にはじまる」とその意義を認め、「しないのははなはだ不自然」とまで述べています。
結婚は必要だけど、結婚の際に恋愛感情は必要ない、若者はさっさと親の勧める相手と結婚して恋愛の妄執(もうしゅう)から解放されて、あとは努力の人生を送れ、と言いたいようなのです。
恋愛を人間成長の機会と見るか、それとも恋愛ではしょせん人間は成長できないから、恋愛そのものに足を取られないようにするか、考え方は異なりますが、いずれにしても心の専門家たちが考える「正しい恋愛」は、私たちがいま実際に考えたり行ったりしている恋愛とはかなり違う姿をしています。
つまり、専門家の恋愛論はほとんど実際の恋愛や恋愛トラブルを考えるためには、役に立たないのです。
つづく
「あなたじゃなければ」
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます